少子化対策(3)「少子化対策こそ国家百年の計」

((2)「社会全体で子育て費用の捻出を」のつづき)
消費税1%を子どもたちに
 スウェーデンやフランスの例を見ましたが、それらのヨーロッパ諸国に比べて日本の少子化対策にあてられる公的支出は貧弱です。子育て支援にあてられている公的支出の水準をGDP比でみると、フランス3.00%、イギリス3.27%、スウェーデン3.35%に対し、日本は1.04%と、3分の1以下に過ぎません。わが国の高齢者関係支出の対GDP比が約10%であるのに比べても、あまりにも少なすぎると言わざるを得ません。 
 少子化の流れを反転させるには、財源の確保は避けては通れません。恒久的な財源を確保し、政府が本気で取り組む姿勢を国民に伝えていくことこそ重要でしょう。
 かつて小渕優子衆議院議員が主宰した自民党少子化対策PTでは、消費税1%分に相当する約2~3兆円を少子化対策に充てることを提言しました。今後ますます高齢者関係予算が増加していく中、少子化対策の財源もそれに見合った形で確保しなければなりません。持続可能でなければならない少子化対策において、消費税という安定税収が財源としてふさわしいということも論拠の一つでした。
 もう一つの理由としては、広く国民が負担する消費税を財源とすることで、誰もが日本の少子化問題や子どもたちの育成・未来にかかわっているという責任を共有することに結びつくことになるとも考えられたそうです。
 仮に今よりも2~3兆円増の財源を確保することができれば、例えば幼児教育や保育所利用の無償化、医療費の負担の大幅軽減が可能になります。妊婦健診、出産費用の無料化も可能になるでしょう。つまり、妊娠から出産、義務教育開始前までの子どものための公的サービスをほぼ全て無料にすることができます。
 それだけではなく現在待機児童が問題になっている中で、保育所の確保やその他保育サービスの充実など、子どもを育てやすい社会環境の整備に力を入れることもできます。
 女性が社会で働きながら子どもを育てていくために、保育所の確保は欠かせません。しかし今尚待機児童の問題は解決せず、働きたくても働けない人たちが後を絶ちません。昨今の景気悪化によりさらに保育所を求める声が大きくなっているにもかかわらず、抜本的な対策が打てていないのが現実です。
 更には若者が安心して家族を持てるようにするため、家族形成可能な就労・経済的自立への支援など包括的支援や、ひとり親家庭(母子家庭・父子家庭)等への支援、就学援助、授業料減免、奨学金等により家計の教育費負担の軽減、病児保育の充実などの予算も拡充することができます。
 前々回に述べた子育て世代の労働環境も大きく改善させ、「子育て期間中は短い労働時間でも生活でき、育児のための休暇を家計や職場に気兼ねなく取得でき、子どもを2人以上養っても十分生活できる雇用・経済環境」の確保にも大きく前進します。
 出生率が1.8を超えるフランス、スウェーデン、イギリスに比べれば、まだ低い水準かもしれませんが、少なくともこの流れを変えることはできるでしょう。
少子化対策に向けた政治家の使命
 20世紀後半、日本の女性の生き方は多様化し、選択肢も増えました。しかし、一方で女性を取り巻く労働環境、社会環境、家庭や社会での伝統や慣習はその変化のスピードに全く追いついてこなかったのではないかと思います。
 その結果、結婚もしたい、子どもも生みたい、仕事も続けたいという当たり前の希望がなかなか叶えられない、叶えるには相当の負担(経済的・肉体的・精神的)が発生する社会に、わが国はなってしまったのではないかと思います。
 女性を家庭に捕えるようなことにしてはいけないのと同時に、本人の意思や環境を無視して闇雲に仕事と育児の両立に追い込むようなことがあってもいけません。どのような環境やライフスタイル下にあっても、子どもを生み、育てやすい社会環境を目標に進むことが重要でしょう。 
 少子化対策は、子どもを生み、育てる当事者だけの問題ではありません。少子化がもたらす人口減少の問題は、社会全体に影響を及ぼすのですから、少子化対策は社会全体で負担し、対策を講じるべき問題です。その意味で子どもたちが健やかに成長していくには、大人たちの温かい見守り、助け合いや「お互いさま」の知恵と工夫が必要です。
 景気は悪いとはいえ日本はこれだけの経済大国となり、国際社会において一目おかれる国に成長しました。にもかかわらず、子どもを産み、育てたいという自然な欲求が満たされず、安心して子どもを育てることもできない国になってしまいました。
 女性はいまだに子どもか仕事かという二者択一を求められ、やりたいことをあきらめなくてはならない人も多数いる国家とは、到底豊かな国、先進国とは言えないのではないかとも思います。
子育てを素晴らしいと思える人生観
 言うまでもなく、子育てとは子どもに限りない愛情を注ぎ、その存在に感謝し、日々成長する子どもの姿に感動して、親も親として成長していくという大きな喜びや生きがいをもたらすものです。
 しかし一方で、昨今子どもにどのようにかかわっていけばよいか分からず悩み、孤立感を募らせ、情緒が不安定になっている親も増えています。児童相談所における虐待に関する相談処理件数が増加しているのも、こうしたことが背景にあるのではないかと思います。
 女性の社会進出が一般的になり、多様な価値観が混在する社会となり、子育てのほかにも、仕事やその他の活動を通じた自己実現の道が選択できる社会になりました。その中で、子育てに専念する生き方に不安を覚え、子育ては「自分の人生にとってハンディキャップではないか」と感じてしまう親が増えているとも言われています。
 確かに子育ては、物質的に豊かで快適な社会環境となった現代においても、なかなか思うようにはならないことが多い困難な体験であり、喜びを感じる前に、ストレスばかり感じてしまうこともあります。
 しかし少子化対策の基本理念は、両親が子育てについて第一義的責任を有し、その中で人生の喜びを見出すことにあるべきです。このことは、保育や育児代行の拡充等、いわゆる社会保障政策のみで解決できる問題ではありません。
 親の子育てに対する不安やストレスを解消し、「子育てとは素晴らしいものなんだ」という人生観を築くため、そして子育てと人生設計との整合性を図るため、幼少の人格形成期において、「自分の人生にとって子育てとは」ということをしっかり考えることができる教育態勢を整備することが重要です。
 子どもを育て、その喜びや生きがいを取り戻すことこそ、少子化対策のスタート地点だと思います。そして結婚、出産、子育ての希望がかなえられ、貧困や格差によって人生をあきらめることがない、そして生き生きとした経済と命の営みが続く社会こそ、我々が目指すべき社会ではないでしょうか。
 そうした社会が実現できれば、やがて少子化の流れは反転し、入口減少から脱却し、安定的で持続可能な日本が可能になるでしょう。
国家百年の計
 「国家百年の計は○○あり」とはよく聞くフレーズですが、この「百年の計」とは、遡れば原点は中国の文献に由来します。
 紀元前7世紀頃、春秋戦国時代の中国に管仲という政治家・思想家がいました。農業(経済)を国防より大切にし、国王桓公を宰相として支えた政治家です。かの孔子も何度か言及する有名な人物なのですが、その管仲の著書『管子』には、こういう言葉があります。
『一年之計、莫如樹穀  十年之計、莫如樹木  終身之計、莫如樹人』
 書き下しますと
「一年の計は穀を樹うるに如くはなし  十年の計は木を樹うるに如くはなし  終身の計は人を樹うるに如くはなし」
となります。意味としては、一年の計を考える者は田を耕し、十年の計を考える者は植林し、終身の計を考える者は人を育てることを優先する、というぐらいの意味になろうかと思います。この「終身の計」が「百年の計」に相当する部分です。
 もちろん田を耕すことも重要ですし、木も育てるには何十年単位のスパンで考えなければならない大きな問題です。しかし、一生の計画、今後百年スパンで考えた場合には、やはり人づくりこそがわが身を助け、しいては国家を築くという意味です。人材を育て、その成果を見極めるには、一生涯をかけた計画が必要であるということが、はっきり書かれているのです。。
 この言葉の後に、『管子』では以下の言葉が続きます。
「一樹一穫者穀也。一樹十穫者木也。一樹百穫者人也。」
 すなわち、一を植えて一の収穫があるのは穀物であり、一を植えて十の収穫があるのは木であり、一を植えて百の収穫があるのは人である、という意味で、ここから「一樹百穫」という四字熟語も生まれました。人材を育てることは、大きな利益をもたらし、また大計を成し遂げるには、人材を育成しなければならないという意味です。
 このように、国家百年の計とは元々、人を育てるという思想であった訳ですが、今ではそれが転用されて、人を育てること以外の計画においても使われるようになりました。いずれにせよ国家づくり、そしてそのための人づくりこそ、社会全体で取り組まなければならない重要な政策であり、政治家の重要な責務だとこの格言は指摘しているように思います。
 私も国会議員の一人として、国づくり、人づくりの根幹とも言えるこの少子化対策を国家百年の計に位置付け、引き続き国政の場で提言し続けて参りたいと思います。
(おわり)

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